星野直樹

ほしの なおき(Naoki Hoshino) A級

1892年4月10日 – 1978年5月29日 /神奈川県 /政治・官界

星野直樹(1892–1978)は、大蔵官僚から満州国の運営を担い、東條英機内閣で内閣書記官長を務めた官僚・政治家。[1]

満州国の総務長官として行政を統括し、東條英機・鮎川義介・岸信介・松岡洋右とともに満州国を動かす「二キ三スケ」の一人に数えられた。[1]

敗戦後、A級戦犯として終身刑の判決を受けたが、1955年に釈放され、戦後は実業界に転じた。[1]

戦犯としての位置づけ

区分
A級戦犯
処遇
有罪(終身刑)・服役後に釈放
巣鴨収容
1945年
釈放
1955年

A級戦犯として極東国際軍事裁判に起訴され、終身刑(終身禁錮)の判決を受けた。[1]

巣鴨で服役したのち、1955年に釈放された。[1]

戦前の経歴

  • 1917 東京帝国大学を卒業し、大蔵省に入省した。[1]
  • 1932–1940 満州国の官吏となり、1937年に国務院総務長官として満州国の行政を統括した。[1]
  • 1940 第二次近衛文麿内閣の国務大臣兼企画院総裁を務めた。[1]
  • 1941 東條英機内閣の内閣書記官長に就任した。[1]

釈放後の歩み

  1. 1955

    巣鴨拘置所から釈放された。[1]

  2. 1955–

    釈放後は実業界に転じ、ダイヤモンド社・旭海運・東急国際ホテルなどの社長を歴任した。[1]

戦後日本への影響

満州国の実務を統括した「二キ三スケ」の一人として、戦前の国家運営に大きな影響を与えた。戦後も釈放後に実業界で活動した。[1]

関わった人物

  • 岸信介 ― 満州国の経営を共にした「二キ三スケ」の一人。[1]
  • 鮎川義介 ― 同じく「二キ三スケ」の一人。満州国の経営に携わった。[1]
  • 東條英機 ― 内閣書記官長として仕えた首相。ともに「二キ三スケ」に数えられた。[1]

写真

極東国際軍事裁判の公判に臨む星野直樹(1947年)
極東国際軍事裁判の公判に臨む星野直樹(1947年)
出典:占領軍(米陸軍)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン(米国政府職員の職務著作/PD-Japan-oldphoto)) 原本

出典

本文中の [番号] は下記の出典に対応します。区分: 一次資料=公文書等/学術=論文・研究書/報道/一般書

  1. [1]
    一般書 コトバンク「星野直樹」(新訂 政治家人名事典/日本大百科全書ほか) (コトバンク) リンク
    生没年・満州国総務長官(1937)・「二キ三スケ」・近衛内閣の企画院総裁・東條内閣書記官長・A級戦犯終身刑・1955年釈放・戦後の社長職(ダイヤモンド社/旭海運/東急国際ホテル)を確認

最終確認日:2026-07-09

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