巣鴨拘置所 1945–1958
巣鴨と戦後日本
解放された戦犯たちの人物名鑑
写真:重光葵、戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印(1945年9月2日)/米国政府撮影・パブリックドメイン
一序
第二次世界大戦後、東京・巣鴨の巣鴨拘置所には、戦争犯罪の容疑者と受刑者が収容された。1945年11月の開設から1958年12月の閉鎖までに、その数は約4,000名にのぼる。
本サイトは、そこを出たのち日本の政治・経済・言論の中枢へ戻った人物を記録する。各記述に出典を付し、一次資料と学術文献で裏づけられない事項は断定しない。アクセス数や商業性は目的としない、個人による非営利の資料サイトである。
二釈放の年
収録17名の釈放年をならべると、人が二つの時点に固まる。個々の事情ではなく、占領政策の転換がそこに現れている。
- 1947 1947年 2名
不起訴による釈放が始まる。
- 1948 1948年12月24日 7名
東條英機らの処刑の翌日。追加の裁判を行わないという決定のもと、不起訴のまま巣鴨を出た。
- 1950 1950年 1名
禁錮7年の刑期を経て仮釈放。
- 1955 1955年 7名
終身禁錮を受けた者が相次いで仮釈放された。
三背景・解説
人物という点を結ぶ文脈を、4本の記事にまとめている。
- 01 巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)― 収容と釈放の舞台 東京・巣鴨にあった拘置施設。1945年11月に連合国軍が接収して戦犯容疑者を収容する「巣鴨プリズン」となり、1958年12月に閉鎖されるまで約4,000名が身柄を置かれた。本サイトが扱う人物は、いずれもこの建物を経て戦後社会に戻っている。
- 02 1948年12月24日の一斉釈放 ― 東條ら処刑翌日の転機 東條英機ら7名の絞首刑が執行された翌日、起訴されないまま巣鴨に拘置されていた戦犯容疑者19名が釈放された。岸信介・児玉誉士夫・笹川良一もこの中にいる。「追加の裁判を開始しない」という連合国軍側の決定が、戦後日本の顔ぶれを大きく左右した。
- 03 逆コース ― 復権を可能にした占領政策の転換 非軍事化・民主化から、冷戦下の反共政策へ。1948年前後に始まる占領政策の転換と、それに続く公職追放の解除が、巣鴨を出た人々が政治・経済の中枢へ戻る道を開いた。ただし「逆コース」という枠組み自体にも議論がある。
- 04 『すがも新聞』と巣鴨の内側 ― 記録に残された日常 巣鴨プリズンでは、収容者自身が新聞を出していた。1948年6月創刊の『すがも新聞』は全193号を数える。教誨師の記録、収容者が獄中で書いた漢詩とあわせて、判決と釈放の日付の外側にあった13年余りの日常をたどる。

