石原広一郎

いしはら こういちろう(Koichiro Ishihara) A級

1890年1月26日 – 1970年4月16日 /京都府 /経済・財界・右翼・団体

石原広一郎(1890–1970)は、マレー半島の鉄鉱山開発から身を起こした実業家。1920年に南洋鉱業公司を設立し、のちの石原産業を築いた。海運や精錬にも手を広げ、石原コンツェルンと呼ばれる企業群を率いた。[1][3]

大川周明らの神武会、田中国重らの明倫会など、国家主義運動に資金を提供した。1936年の二・二六事件では反乱幇助の嫌疑で逮捕・起訴されたが、無罪となっている。[1][2]

敗戦後、A級戦犯の容疑者として巣鴨拘置所に収容されたが、起訴されないまま1948年12月24日に釈放された。公職追放の解除後は石原産業の社長・会長を長く務めた。[1][4]

戦犯としての位置づけ

区分
A級戦犯
処遇
不起訴・釈放
巣鴨収容
不詳
釈放
1948年12月24日

敗戦後、A級戦犯の容疑者として巣鴨拘置所に収容された。収容がいつ始まったかを明記した資料には行き当たっていない。[1]

1946年2月15日の午後2時から3時45分まで、巣鴨拘置所で国際検察局の尋問を受けた。尋問官はヘンリー・A・ホークハースト、通訳はデニス・キルドイル。事件番号は208である。[5]

同じ日、石原は差入れを求める書付を託している。「持参人に私の『Rehabilitation of New Japan』を渡してください。巣鴨で必要です」。1934年に自ら著した本で、尋問では「近衛首相に自分の意見を採ってもらうつもりで書いた」「書いてから今日まで、私の考えはいささかも変わっていない」と述べている。[5]

1946年3月25日、国際検察局のG・C・ハーディンは執行委員会あての覚書で、石原を起訴しないよう進言した。その本『Rehabilitation of New Japan』は検討の結果「戦争宣伝と見なすことはできない」とされたという。[6]

覚書はこう結ぶ。「もちろん、さらに捜査を進めれば戦争犯罪人としての起訴を支えるに足る証拠が出てくる可能性はある。しかし本ファイルはそれを示していない。そして被告の数を絞るという我々の方針に照らせば、彼を含めるべきではないと考える」。[6]

起訴されないまま、1948年12月24日に釈放された。在日政治顧問代理シーボルトが同日付で米国務長官へ送った電報は、この日に釈放された19名の一人として石原の名(Koichiro Ishihara)を挙げている。[4]

戦前の経歴

  • 1913–1916 立命館大学法科専門部を卒業した。GHQの尋問では、その後に京都府庁へ勤めたと述べている。[1][5]
  • 1916 シンガポールへ渡り、100エーカーのゴム園を買って自ら経営した。3年後にこれを売却している。[5]
  • 1919 マレー半島で鉄鉱石を見つけ、500エーカーの鉱区の借地権に資金を投じた。事業が手に余る規模になったため有限会社を設け、のちに英国法に基づく資本金300万シンガポール・ドルの会社を設立したと述べている。事典は、1919年にジョホール州でスリメダン鉱山を発見したと記す。[5][3]
  • 1920–1929 1920年9月、南洋鉱業公司を設立した(のちの石原産業)。鉄鉱石は八幡製鉄所へ特約で納入された。1924年に海運業へ進出し、1929年に石原産業海運と改称している。[1][3]
  • 1921–1941 尋問で石原は鉄鉱石の産出量を挙げている。1921年3万トン、1922年5万トン、1923年15万トン、そして1931年が70万トンで最大だった。日中戦争が始まると鉱脈は衰えはじめ、年20万トンまで落ちたという。インドの製鉄所へ送った5万トンを除き、産出したものはすべて日本へ運ばれた。ボーキサイトも最大で年3万トンを採り、これもすべて日本へ送っている。[5]
  • 1941 「これによって私はシンガポール当局から好意的な扱いを受けた。対米開戦の2日前には、25年から30年にわたる新しい採掘権を与えられたほどだった」と述べている。同年、四日市に工場が建てられた。[5][3]
  • 大川周明らの神武会、田中国重らの明倫会など、国家主義団体に資金を提供した。明倫会については、石原が結成したとする事典もある。[1]
  • 1936 二・二六事件に際し、反乱幇助の嫌疑で逮捕・起訴されたが、無罪となった。[1][2]

釈放後の歩み

  1. 1946

    2月15日に巣鴨拘置所で尋問を受け、3月25日に国際検察局が不起訴を進言した。[5][6]

  2. 1948

    巣鴨拘置所から釈放された(12月24日)。[4]

  3. 1949

    石原産業は企業再建整備法により解散し、第二会社を設けたのちに社名へ復した。[3]

  4. 1954–

    公職追放の解除後、石原産業の社長に復帰した。酸化チタンの製造を軸に社業を立て直し、のちに会長を務めた。[1][3]

  5. 1961

    四日市工場の廃水汚濁をめぐって起訴されたとする記載がある。[1] 諸説あり

  6. 1970

    4月16日、80歳で死去した。[1]

戦後日本への影響

石原は尋問で、自分と軍部との関係を「きわめて悪かった」と述べている。中国への日本軍の進出に反対したこと、そして板垣征四郎が陸相であったときに近衛文麿首相の依頼で陸相に会い、自分の意見を伝えたことを挙げ、その二つを理由に「二度逮捕された」と語った。[5] 諸説あり

ところが同じ調書の後段では、尋問官が「逮捕の脅し」という小見出しを立て、石原の説明を次のように記している。「私は実際に逮捕されたわけではない。汪兆銘のような人物を中心に中国へ新しい政府をつくるのは誤りだと述べたことがあり、そのために憲兵隊から、同じことを繰り返せば逮捕することになると戒められた」。同一の尋問のなかで説明が食い違っている。[5] 諸説あり

石原が語った具体的な進言は、南京陥落後に蔣介石が漢口へ退いた際、日本軍は漢口まで追わずに南京へ引き返すべきだ、というものだった。板垣はこれに対し「一度占領した場所は占領し続けねばならないから、自分にはどうすることもできない」と答えたという。[5] 諸説あり

石原の事件は、証拠の不足ではなく「被告の数を絞る」という運用方針が明示的に理由とされた例である。国際検察局の覚書は、さらに捜査すれば起訴を支える証拠が出る可能性を認めたうえで、それでも起訴しないよう進言した。[6]

釈放後、石原は石原産業を酸化チタン国内首位・農薬の有力メーカーとして立て直した。他方、1941年に建てられた同社の四日市工場は、のちに四日市の公害問題の舞台となる。1968年から69年にかけて日量20万トンの排水を四日市港へ排出したとして、工場長2名が1980年3月17日に有罪判決を受けた。石原の死から10年後のことである。[3][1]

関わった人物

  • 大川周明 ― 石原は大川らの神武会に資金を提供した。1948年12月24日に釈放された19名にも、ともに名を連ねている。[1][4]
  • 近衛文麿 ― 石原は尋問で、近衛の政策を「おおむね良いと考えていた」と述べ、日中戦争は局地に留めるべきだという近衛の考えに賛成していたと語った。近衛の依頼で陸相に自分の意見を伝えに行ったともいう。[5]
  • 板垣征四郎 ― 陸軍大臣。石原は漢口からの撤退を進言したが、「一度占領した場所は占領し続けねばならない」として応じなかったという(石原の供述による)。[5]

写真

石原広一郎(1939年、『財界人物評論全集』第2巻より)
石原広一郎(1939年、『財界人物評論全集』第2巻より)
出典:撮影者不詳/国立国会図書館所蔵『財界人物評論全集』第2巻(1939年)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン(PD-Japan-oldphoto/PD-1996・米国でもURAAによる回復なし)) 原本

出典

本文中の [番号] は下記の出典に対応します。区分: 一次資料=公文書等/学術=論文・研究書/報道/一般書

  1. [1]
    一般書 コトバンク「石原広一郎」(日本大百科全書/20世紀日本人名事典/百科事典マイペディア/デジタル版 日本人名大辞典+Plus) (コトバンク) リンク
    明治23年1月26日生・昭和45年4月16日没(80歳)・京都市郊外の農家の出・立命館大学法科専門部卒(大正2年)・1920年の南洋鉱業公司設立・鉄鉱石とマンガン鉱・海運業・大川周明らの神武会と田中国重らの明倫会への資金提供・二・二六事件での反乱幇助罪による逮捕・A級戦犯指定と不起訴釈放・公職追放解除後の石原産業社長復帰・酸化チタンによる再建を確認。1961年の四日市工場の廃水をめぐる起訴は20世紀日本人名事典のみが記し、石原個人か会社かは判然としない
  2. [2]
    学術 近代日本人の肖像「石原広一郎」 (国立国会図書館) Portraits of Modern Japanese Historical Figures リンク
    生没年・立命館大学卒(1913年)・マレー半島での鉄鉱山開発と南洋鉱業公司の設立・海運業とフィリピンの鉱山開発・石原コンツェルン・神武会と明倫会への資金提供・二・二六事件での逮捕と起訴および無罪・A級戦犯容疑での拘留と不起訴釈放・公職追放と復帰を確認
  3. [3]
    一般書 コトバンク「石原産業」(改訂新版 世界大百科事典/日本大百科全書/ブリタニカ国際大百科事典) (コトバンク) リンク
    1919年のジョホール州スリメダン鉱山の発見・1920年9月の創設・八幡製鉄所への特約納入・1924年の海運進出と1929年の石原産業海運への改称・1941年の四日市工場建設・1949年の企業再建整備法による解散と第二会社・1954年からの酸化チタン製造・1968〜69年の四日市港への排水と1980年3月17日の工場長2名への有罪判決を確認
  4. [4]
    一次資料 Foreign Relations of the United States, 1948, Vol. VI, The Far East and Australasia, Document 632(740.00116 PW/12–2448: Telegram) /William J. Sebald(在日政治顧問代理)→ 米国務長官 (U.S. Department of State, Office of the Historian 1948-12-24) リンク
    1948年12月24日に19名の戦犯容疑者が釈放されたことと、その氏名一覧を記載。一覧に Koichiro Ishihara の名がある
  5. [5]
    一次資料 極東国際軍事裁判 法廷証第333号 ― 石原広一郎の尋問記録(1946年2月15日、事件番号208) /Henry A. Hauxhurst(尋問官)/通訳 Denis Kildoyle (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-02-15) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331(GHQ/SCAP)/NDL pid 12854606/全5ページ リンク
    冒頭に「Date and Time: 15 February 1946 – 1400 to 1545 hours/Place: Sugamo Prison, Tokyo, Japan/CASE NO. 208」と明記。経歴、マレー半島の鉱山経営、産出量、軍部との関係、近衛・板垣・杉山への言及、憲兵隊からの戒告、著書についての供述を含む。末尾に本人が署名した差入れ依頼の書付の写しが付く。本サイトはスキャン画像を全5ページ判読して引用している。※尋問における応答は被疑者本人の供述であり、事実認定とは区別して読む必要がある。※出資者として言及される「川崎造船所社長のMATSUOKA」は、原文がローマ字表記で人物を特定できていないため本文に採っていない
  6. [6]
    一次資料 GHQ/SCAP 国際検察局 覚書(執行委員会あて)― 事件番号208 石原広一郎 /G. C. Hardin(国際検察局) (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-03-25) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331(GHQ/SCAP)/NDL pid 11918757 リンク
    1946年2月15日の尋問を要約したうえで、著書『Rehabilitation of New Japan』が「戦争宣伝と見なすことはできない」と評価されたことを記し、「さらに捜査を進めれば起訴を支える証拠が出てくる可能性はあるが、本ファイルはそれを示していない。そして被告の数を絞るという我々の方針に照らせば、彼を含めるべきではない」と結ぶ。本サイトはスキャン画像を判読して引用している

最終確認日:2026-08-16

本サイトは、巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に収容され、その後釈放された戦争犯罪人が、戦後日本の政治・経済に どのように関わったかを、一次資料と学術文献に基づいて客観的に記録する非営利の資料サイトです。 各記述には出典を明示し、一次資料・学術資料で裏付けられない事項は断定を避けています。

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