大島浩

おおしま ひろし(Hiroshi Oshima) A級

1886年4月19日 – 1975年6月6日 /岐阜県 /政治・官界

大島浩(1886–1975)は、陸軍軍人・外交官。駐ドイツ大使館付武官を経て駐ドイツ大使を務め、日独防共協定および日独伊三国同盟の締結を推進した。[1][2]

父も陸軍大臣を務めた軍人である。[1]

敗戦後、A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受け、1955年12月に仮釈放された。[3][2]

戦犯としての位置づけ

区分
A級戦犯
処遇
有罪(終身刑)・服役後に仮釈放
巣鴨収容
不詳
釈放
1955年12月

敗戦後、A級戦犯として極東国際軍事裁判の被告となった。巣鴨拘置所への収容がいつ始まったかについては、本サイトが参照した資料に明記がない。[2][1]

国立国会図書館憲政資料室が所蔵する「大島浩関係文書」は、大島が巣鴨拘置所に収監中に記した漢詩などの自筆原稿22点からなる。2021年1月に個人から寄贈され、同年2月10日に公開された。[2]

1948年11月、終身禁錮の判決を受けた。判決は11月12日に言い渡され、大島は終身禁錮とされた16名の一人である。[3][2]

1955年12月に仮釈放された。[2]

戦前の経歴

  • 1905–1915 陸軍士官学校(第18期、1905年11月)を卒業し、陸軍大学校(第27期、1915年12月)を卒業した。[2]
  • 1921 ドイツ大使館付武官補佐官となった(1921年5月)。[2]
  • 1934–1936 ドイツ大使館付武官となり(1934年3月)、親ナチス派として1936年の日独防共協定の締結を推進した。[2][1]
  • 1935 極東国際軍事裁判に法廷証として提出された尋問調書で、大島は防共協定の発端を次のように語っている。1935年の春、フリードリヒ・ハックが大島を訪ね、「これはリッベントロップ個人の考えでドイツ政府の政策とは無関係だが、独日間で対ソ防衛同盟のようなものを結ぶ可能性はないか」と持ちかけた。日本陸軍が満州へ進出し、ソ連と国境を接するに至ったため関心を持つはずだ、というのがその理由だったという。[5]
  • 1935 同年10月、大島はハックの自宅でリッベントロップと初めて会った。リッベントロップは「これは自分個人の考えにすぎず、ヒトラーや政府がどう考えているかは知らない」と述べたうえで、日本の軍部の意向を探ってほしいと求めたという。大島は参謀本部へ電報を送り、「全体として反対はないが、確約の前になお検討したい」との返電を得た。参謀本部はドイツ課の若松中佐をベルリンへ派遣し、同中佐は1935年12月初めに着任している。[5]
  • 1935–1936 この経緯について外務省への連絡の有無を問われた大島は、「いいえ。これは純然たる軍事上の事柄でした」と答えている。大島は、陸海軍の武官が「大使の管轄下になく、東京のそれぞれの幕僚本部に直接責任を負う」ため、純然たる軍事事項であれば大使を通さずに他国の軍と協議しうると説明した。[5]
  • 1935 少将に昇進した(1935年3月)。[2]
  • 1936–1939 1946年2月4日の尋問で大島は、防共協定と同時に日独間で秘密協定が結ばれていたことを認めている。さらに、条約という形はとらなかったものの、1937年には日独両陸軍がソ連軍に関する情報を互いに提供しあうことで合意し、「すでにかなり用いられ、ワルシャワやパリといった土地で接触していた白系ロシア人の利用を強化することが決められた」と述べた。この種の取り決めは1938年9月か10月ごろの協議によるもので、文書にはされず「拘束力のある協定というより覚書に近いもの」だったという。独ソ不可侵条約の締結によって、こうした活動は一時中断した。[7]
  • 1937 イタリアの防共協定への加入について、大島は「自分にはその経緯は分からない。イタリアとドイツの間で話がまとまったのだと思う。この時点ではすでに自分の手を離れていた」と述べ、ドイツ側からイタリアを協定に引き入れる話が出ていたことを記憶するにとどまるとした。[7]
  • 1938 中将となり、予備役に編入されて駐ドイツ大使に任命された。[1]
  • 1939 独ソ不可侵条約の締結を受けて駐ドイツ大使を辞任した。[1]
  • 1940–1945 1940年の三国同盟締結後、あらためて駐ドイツ大使に任命され(1940年12月)、日独伊三国同盟を強力に推進したとされる。[2][1]
  • 1941-12 開戦直前、大島は東京から、ドイツとの単独不講和に関する政府の意向を伝える訓令を受け取り、これをリッベントロップに伝えた。リッベントロップが戦争になるのかと尋ねたのに対し、大島は、訓令は開戦を断定しておらず「戦争になった場合にはこうしてほしい」と述べるにとどまっていたと説明したうえで、ハルの強硬な回答と在米公館での暗号書焼却は承知しており日米関係が極度に緊張しているのは明らかだが、実際に戦争になるかどうかは分からない、と答えたという。[9]
  • 1941-12 リッベントロップはこれを「ドイツが下さねばならないきわめて重大な決定」だとして、返答の前に総司令部のヒトラーと連絡をとる必要があると述べた。しかしソ連軍がモスクワ正面で激しい反攻に転じ、ドイツ軍の一部が包囲されたため、ヒトラーは自ら現地へ赴いており連絡がつかなかった。折しもベルリンは暴風に見舞われ、通信も著しく妨げられていたという。[9]
  • 1941-12 リッベントロップはさらに、日本側に差し出せるものはあるか、相互援助に関する別の協定を結ぶ用意はあるかと問うた。大島は「要するにドイツ側はこの時点で駆け引きに転じ、品物を出すなら対価がほしいという態度になっていた」と述べ、それに応じることは当時の軍事委員会を無視するかその権限を奪うことになるため、自分には代償を提案する立場がないと答えたという。12月3日か4日ごろ、大島は「リッベントロップはまだヒトラーと連絡がつかない」旨を東京へ打電した。[9]
  • 1941-12-07 以後、ドイツ政府からはほとんど毎日、開戦の有無について問い合わせがあったが、「実際に戦端が開かれるまで、ついにヒトラーと連絡をとることはできなかった」。12月7日午後、東京の外務省から交渉を急ぎ早期に妥結せよとの訓令が届き、暗号を解いて大島の手元に渡ったのは午後5時ごろだった。大使館員の協議を経て返電が起草され、ベルリン時間の午後7時ごろに完成、午後8時ごろに発信を命じて大島は公邸へ戻った。[9]
  • 1941-12-07 その十数分後、カワハラ参事官から電話が入る。ノハラという大使館員がラジオで日本海軍の真珠湾攻撃を聞いた、というのである。大島は直ちに大使館へ電話し、用意した電報を取り消させた。[9]

釈放後の歩み

  1. 1948

    極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受けた(11月)。[3][2]

  2. 1955

    12月に仮釈放された。[2]

  3. 2021

    巣鴨拘置所収監中に記した漢詩などの自筆原稿22点が個人から国立国会図書館に寄贈され、「大島浩関係文書」として公開された(2月10日公開)。[2]

戦後日本への影響

駐ドイツ大使として日独防共協定・日独伊三国同盟の成立に関与し、日本の対欧州外交をドイツ寄りに導いた人物とされる。[1]

大島の尋問記録は、日独防共協定が外務省を通さない陸軍武官のルートで動き出したことを、当事者本人の口から示す資料である。協定の成立について大島は「陸軍には、あの協定を日本政府に呑ませるだけの力が十分にあった、というのは全くそのとおりです」と認め、さらに「陸軍が望まなければ、この件でいかなる条約も成立しえなかったでしょう」と述べている。リッベントロップが日本陸軍に働きかけた理由についても、「彼は日本陸軍が満州を手中に収めた経緯を見ており、この種の条約を推し進めるには日本陸軍が最も強い立場にあると自然に結論づけたのでしょう」と説明した。[5]

対ソ参戦をめぐっては、弁護側が大島の尋問記録を援用している。1946年4月22日の尋問で大島は、1941年6月中旬ごろにリッベントロップから非公式に「日本も対ソ戦に加わってほしいというドイツ陸軍の希望」を伝えられ、外務大臣へ報告したが返答はなかったと述べた。その後も非公式に幾度か問われ、そのつど本国へ報告している。「ドイツが日本政府に対して正式に対ソ参戦を提議したのは一度だけで、それは1942年7月のことだった。日本政府は否定的に回答し、その趣旨は、日本の兵力は中国と太平洋の戦域にかろうじて足りるだけで、対ソ戦を戦うことはできない、というものだった。ドイツはその後、この提議を繰り返さなかった」。[8]

同じ尋問で大島は、関東軍が対ソ攻勢の準備態勢にあったかを問われ「そのようなことは何も知らない」と否定したうえで、むしろ逆であったと述べている。「ドイツ政府は、日本がソ連に対して何ら行動を起こさないことに常に不満を抱いていたと考える」。日本がモスクワへ中立条約の遵守を保証したことにドイツは抗議し、その後も「日本海軍がアメリカによるウラジオストクへの軍需品輸送を有効に阻止していない」として抗議を重ねたという。[8] 諸説あり

1946年2月26日の尋問で大島は、開戦直前に東京から受け取った通報について述べている。1941年11月末から12月初めにかけて、日本政府が在米領事館に対し、ごく一部を残して暗号書を焼却するよう命じたとの連絡を受けた。前後して、ドイツとの単独不講和の取り決めに関する訓令も受け取っている(12月3日ごろと記憶するという)。これらはいずれも外務省から発せられたもので、当時の外務大臣は東郷茂徳であった。[6]

極東国際軍事裁判で終身禁錮とされた16名のうち、外交官として枢軸同盟の形成に関与した立場から裁かれた一人である。[3]

本サイトが参照した資料は、1955年の仮釈放以後の活動について記載していない。他方、巣鴨で書き残した漢詩の自筆原稿が遺され、2021年に国立国会図書館で公開された。[2]

関わった人物

  • 嶋田繁太郎 ― 東條内閣の海軍大臣。ともに1948年11月12日に終身禁錮の判決を受け、1955年に釈放された。[3]
  • 松岡洋右 ― 第2次近衛内閣の外相として1940年に日独伊三国同盟を締結した。極東国際軍事裁判の公判中に死去した。[4][3]
  • ヨアヒム・フォン・リッベントロップ ― のちのドイツ外相。日独防共協定・日独伊三国同盟のドイツ側の当事者。大島は尋問で、1935年10月にフリードリヒ・ハックの自宅で初めて会い、そこで対ソ防衛同盟の構想を持ちかけられたと述べている。[5]
  • 白鳥敏夫 ― 駐イタリア大使。大島と呼応して日独伊三国同盟の締結をリードしたとされる。ともに終身禁錮の判決を受けたが、白鳥は釈放されないまま、1949年6月3日に服役中に病死した。[10][3]

背景・解説

写真

大島浩(陸軍中将・駐ドイツ大使、1940–45年ごろ)
大島浩(陸軍中将・駐ドイツ大使、1940–45年ごろ)
出典:撮影者不詳(日本陸軍)/Wikimedia Commons(パブリックドメイン(PD-Japan-oldphoto/PD-1996・米国でもURAAによる回復なし)) 原本

出典

本文中の [番号] は下記の出典に対応します。区分: 一次資料=公文書等/学術=論文・研究書/報道/一般書。

  1. [1]
    一般書 コトバンク「大島浩」(日本大百科全書/20世紀日本人名事典/改訂新版 世界大百科事典/ブリタニカ国際大百科事典) (コトバンク) リンク
    生没年月日・岐阜県出身・父が元陸相・1934年のドイツ大使館付武官・1936年の日独防共協定推進・1938年の中将昇進と予備役編入および駐独大使任命・1939年の独ソ不可侵条約による辞任・1940年の三国同盟後の再任・終身刑と1955年出獄を確認
  2. [2]
    一次資料 大島浩関係文書 解題・目録 (国立国会図書館 憲政資料室) 自筆原稿22点/2021年1月受贈・2021年2月10日公開 リンク
    略歴として陸士卒業(1905年11月・18期)・陸大卒業(1915年12月・27期)・ドイツ大使館付武官補佐官(1921年5月)・ドイツ大使館付武官(1934年3月)・少将(1935年3月)・駐ドイツ大使(1940年12月)・A級戦犯として終身刑宣告(1948年11月)・仮釈放(1955年12月)を記載。資料群の内容は「巣鴨拘置所収監中に記された漢詩等の自筆原稿」
  3. [3]
    一次資料 Foreign Relations of the United States, 1948, Vol. VI, The Far East and Australasia, Document 613 /William J. Sebald(在日政治顧問代理)→ 米国務長官 (U.S. Department of State, Office of the Historian 1948-11-23) リンク
    極東国際軍事裁判の判決(11月4–12日朗読、量刑は11月12日)を報告する電報。終身禁錮16名の一覧に Oshima の名がある。松岡洋右・永野修身は公判中に死去、大川周明は訴訟能力なしとされた旨も記載
  4. [4]
    一般書 コトバンク「松岡洋右」(日本大百科全書ほか) (コトバンク) リンク
    第2次近衛内閣の外相として1940年(昭和15年)に日独伊三国同盟を締結したことを確認。なお同項目に大島浩への言及はない
  5. [5]
    一次資料 極東国際軍事裁判 法廷証第477号(文書2156B)・第478号(文書2156C)― 被告大島浩の尋問抜粋(1946年2月1日) /GHQ/SCAP 国際検察局 (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-02-01) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331/第477号=NDL pid 10274239(尋問記録 pp.16–18, 21, 22)/第478号=NDL pid 10274241(同 pp.18, 19) リンク
    法廷証として採用された尋問抜粋。日独防共協定の発端(ハックの来訪、リッベントロップとの初会見、参謀本部への打電と若松中佐の派遣)、外務省を通さなかったこと、武官の指揮系統、陸軍の主導力についての大島自身の供述を含む。本サイトはスキャン画像を判読して引用している。※尋問における応答は被告本人の供述であり、事実認定とは区別して読む必要がある
  6. [6]
    一次資料 極東国際軍事裁判 法廷証第604号(文書2157D)― 被告大島浩の尋問抜粋(1946年2月26日) /GHQ/SCAP 国際検察局 (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-02-26) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331/NDL pid 10270161 リンク
    1941年11月末から12月初めにかけて大島が東京から受け取った通報(在米領事館への暗号書焼却命令、ドイツとの単独不講和に関する訓令)と、それらが外務省から発せられ当時の外相が東郷茂徳であったことについての供述を含む。本サイトはスキャン画像を判読して引用している
  7. [7]
    一次資料 極東国際軍事裁判 法廷証第487号(文書2157-B)・第490号(文書2157)― 被告大島浩の尋問抜粋(1946年2月4日、尋問記録 p.31, 32) /GHQ/SCAP 国際検察局 (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-02-04) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331/第487号=NDL pid 10274283/第490号=NDL pid 10274289 リンク
    防共協定と同時に結ばれた秘密協定、日独両陸軍の対ソ情報交換と白系ロシア人の利用、独ソ不可侵条約による中断、イタリアの加入経緯についての供述を含む。本サイトはスキャン画像を判読して引用している
  8. [8]
    一次資料 極東国際軍事裁判 法廷証第2693号(弁護側文書619A-1/法廷証776)― 大島浩の尋問抜粋(1946年4月22日) /GHQ/SCAP 国際検察局/訳=Niiro Katsumi(弁護側、1947年5月16日 東京) (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-04-22) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331/NDL pid 10272178 リンク
    弁護側が提出した尋問抜粋。対ソ参戦をめぐるドイツの要求と日本の拒否、関東軍の対ソ準備態勢の否定、ドイツからの抗議についての供述を含む。※大島は「1941年6月中旬ごろ」にリッベントロップから打診を受け「外相豊田へ報告した」と述べるが、豊田貞次郎の外相就任は1941年7月であり、時期と人名は整合しない。※訳者名は原文がローマ字表記(Niiro Katsumi)で、漢字表記を確認できていない。※尋問における応答は被告本人の供述であり、事実認定とは区別して読む必要がある
  9. [9]
    一次資料 極東国際軍事裁判 弁護側文書第2820号/法廷証第3512号 ― 大島浩の尋問抜粋(1946年2月27日、尋問記録 p.201–207) /GHQ/SCAP 国際検察局/訳=Defense Language Branch (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-02-27) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331/NDL pid 10273076 リンク
    1941年12月、ドイツとの単独不講和をめぐるリッベントロップとの交渉から、12月7日に真珠湾攻撃の報が届いて電報の発信を取り消すまでを、大島自身が時刻を追って述べた部分。モスクワ正面のソ連軍反攻でヒトラーと連絡がつかなかったこと、ドイツ側が代償を求めたことなどを含む。※文中の「カワハラ参事官」「ノハラ」は原文がローマ字表記(Kawahara / Nohara)であり、本サイトでは漢字表記を確認できていないためカタカナで記した。※尋問における応答は被告本人の供述であり、事実認定とは区別して読む必要がある
  10. [10]
    一般書 コトバンク「白鳥敏夫」(新訂 政治家人名事典 明治~昭和/20世紀日本人名事典) (コトバンク) リンク
    明治20年6月8日生・昭和24年6月3日没、昭和13年に駐イタリア大使、「大島浩駐独大使と呼応して日独伊三国同盟の締結をリード」、A級戦犯として終身禁錮の判決、「服役中に病死した」ことを確認。釈放されていないため、本サイトの掲載基準(巣鴨収容→釈放者)には該当せず、人物ページは設けていない

最終確認日:2026-07-29

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