葛生能久

くずう よしひさ(Yoshihisa Kuzuu) A級

1874年7月25日 – 1958年2月3日 /千葉県 /右翼・団体

葛生能久(1874–1958)は、千葉県出身の国家主義者。1901年(明治34)に内田良平らとともに黒龍会を組織し、内田の死後は黒龍会の主幹を務めた。[1]

GHQの尋問では、生まれは千葉県海上郡(うなかみぐん)の農村で、父も祖父も医業を営んでいたと述べている。学歴は「尋常小学校を出ただけで、正規の学校には行っていない」という。外国語は解さず、渡航先も中国・朝鮮・フィリピンに限られた。[4]

1931年(昭和6)には、黒龍会を中心に結成された大日本生産党に幹部として参加した。『東亜先覚志士記伝』(全3巻)の監修・編著者としても知られる。[1]

敗戦後、A級戦犯の容疑者として巣鴨拘置所に収監され、1948年12月24日に釈放された。本サイトの収録者の中で、明治以来の国家主義団体そのものを率いた立場にある一人である。[1][3]

戦犯としての位置づけ

区分
A級戦犯
処遇
不起訴・釈放
巣鴨収容
1945年11月22日
釈放
1948年12月24日

連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)国際検察局が作成した葛生の調書(Case File No.105)は、逮捕の根拠を「1945年11月17日付でGHQ/SCAPが日本帝国政府にあてた書簡(AG 383.7 (17 Nov. 45) CI、件名『戦争犯罪人の逮捕』)」と記し、巣鴨拘置所への収容を「1945年11月22日」と明記している。[6]

同じ調書に綴じられた「機密」扱いの評価書は、逮捕時点で葛生について把握されていた事柄を、次の三行だけで記している。「1945年11月22日、逮捕時点における葛生能久の評価。1937年以来、黒龍会の総帥。1944年、大政翼賛会理事。頭山満の右腕と報告されている。1945年11月17日の逮捕命令による」。71歳の葛生は、この評価をもとに3年余りを巣鴨で過ごすことになる。[6]

なお調書に添えられた履歴書は、収容を「1945年11月17日 ― 戦犯容疑者として巣鴨拘置所に抑留」と記しており、逮捕命令の日付と収容日が混在している。本サイトは、収容日を明記した二つの文書(捜査部の覚書と逮捕時評価書)に従い、11月22日を採る。[6] 諸説あり

連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)は1946年3月27日、巣鴨拘置所で葛生を尋問した。尋問は午前9時45分から午後3時45分まで、休憩を挟んで約6時間に及んだ。尋問官はジョン・F・ハンメル少佐、通訳はJ・K・サノ、速記はマージョリー・E・プロイスである。[4]

ハンメル少佐は、認証書に「国際検察局(International Prosecution Section, GHQ, SCAP)付の捜査担当官」と署名している。国際検察局は、極東国際軍事裁判で誰を起訴するかを決める部局であった。[4]

その冒頭で葛生は、巣鴨に来てから受けた質問は、2月初めに「ロンドン・タイムズ」の記事について外国人から受けた一件だけだと答えている。この供述により、遅くとも1946年2月初めには巣鴨に在監していたことがわかる。[4]

尋問の終盤、「なぜ自分が巣鴨にいると思うか」と問われた葛生は、こう答えている。「論理的には、なぜここに拘禁されているのか私には分かりません。しかし黒龍会の活動が誇張して伝えられ誤解されているため、その誤解と私の関わりが解明されるまで留め置かれているのでしょう。黒龍会の本当の姿を調べれば調べるほど、私はすべての嫌疑を晴らされ、釈放されると確信しています」。実際に釈放されたのは、この2年9か月後である。[4]

1947年1月23日、葛生は巣鴨拘置所で宣誓供述書に署名した。荒木貞夫らを被告とする極東国際軍事裁判に、弁護側文書 No.565 として提出されたものである。[7]

1947年4月29日、参謀第2部(G-2)は法務局あてに「機密」扱いの報告を送り、葛生に対する嫌疑を列挙した。1937年以来の黒龍会総帥、大政翼賛会系組織での役職、「頭山満の右腕と目されること」、戦時体制強化連盟の指導者、大日本言論報国会の会長、大日本生産党の顧問、対外同志会の主要会員、時局協議会の有力会員、対支同志会の組織者の一人、国民精神総動員中央委員会および大日本興亜同盟の会員、といった項目である。[6]

ところが同じ報告は、次のように結んでいた。「要するに、葛生は疑いなく生涯を通じた思想的国家主義者であり、その超愛国主義のはけ口を黒龍会という水路に見出してきた。しかしながら、そうした思想上の活動を起訴の根拠とするのでない限り、CIS/G-2 はこの73歳の国家主義者を、訴追することなく抑留から解くよう勧告する」。[6]

他方、国際検察局の判断は異なっていた。1947年6月20日付の同局の書面は、葛生を「文民。1937年、黒龍会総帥。大政翼賛会で役職を歴任。大日本興亜同盟会員。英米に戦争の責任があるとする扇動的な書簡の筆者」と要約したうえで、「起訴状 第1群の訴因1・2・3・4・5により訴追しうる」と記している。[6]

1947年6月26日、国際検察局は葛生の調書をまとめた。そこに記された嫌疑は「侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行し、またその共同謀議を行った」というもので、その具体的内容は「(1) 国家主義的な宣伝を流布したこと、(2) 国家主義的政策の形成を助けたこと」の二点であった。[6]

調書の「検討(DISCUSSION)」は次のように結ぶ。「黒龍会その他の国家主義団体における被疑者の活動、それら団体における指導的地位、閣議による任命を通じて得た公職、尋問における宣伝活動についての自認、そして1943年5月30日のニッポン・タイムズ紙への公開状は、憲章に定める犯罪への被疑者の関与を裏づけるに足る価値があると思われる」。調書の写しは1947年6月30日、主席検察官キーナンの求めによりワシントンへ送付された。[6]

それにもかかわらず、葛生が起訴されることはなかった。1948年12月24日に釈放されている。在日政治顧問代理シーボルトが同日付で米国務長官へ送った電報は、この日に釈放された19名の一人として葛生の名(Yoshihisa Kuzuu)を挙げている。東條英機らの処刑(12月23日)の翌日にあたり、追加の裁判を行わないという方針が決まった日であった。[3][6][1]

戦前の経歴

  • 1901 内田良平らとともに黒龍会を組織した。黒龍会は頭山満を顧問とし、大アジア主義を掲げ、大陸浪人を主体として軍部の外郭団体として活動した。会の名は黒龍江(アムール川)にちなむ。[1][2]
  • 1929–1937 G-2の報告によれば、内田良平の下にあった時期から、葛生は対アジア大陸政策に関わる複数の団体に加わっていた。1929年には対外同志会の主要会員となり、また満鮮問題国民同盟および満洲問題挙国一致各派連合会では、内田良平・頭山満と交代でその首席代表の座を占めた。1937年には対支同志会の組織者の一人となる。同会は「中国を懲らしめる」「弥縫的な和平策を排する」「第三国の干渉を拒む」を三つの目標に掲げていた。[6]
  • 1931 黒龍会関西支部を中心に結成された大日本生産党に、幹部として参加した。同党は結成の翌年に党員1万6000余名を擁したとされる。G-2の報告は同党を「日本の国家主義団体のうち最も反動的かつ全体主義的で、黒龍会の公認された前衛組織」と評し、葛生はその顧問として黒龍会の国内向けの思想を代表していたとする。[1][5][6]
  • 1932–1936 内田良平の後を継いで、黒龍会代表として国体擁護連合会に加わった。G-2の報告によれば、同連合会は80を超える国家主義団体の連合体で、反共と、美濃部達吉の天皇機関説のような自由主義的思想の封殺を目的としていた。葛生はまた機関説撲滅同盟の首席代表を務めており、同同盟の主要会員の名簿は「1930年代の国家主義運動そのものの人名録といえるほどだった」という。国体明徴達成連盟にも加わっている。[6]
  • 1937– 内田良平の死後、黒龍会の主幹となった。葛生自身は東京裁判に提出した宣誓供述書で、1937年10月に黒龍会の「chief secretary(幹事長)」になったと述べている。[1][7]
  • 1887–1907 調書に添えられた履歴書によれば、1887年に尋常小学校を終えたのち独学した。1893年に初めて朝鮮へ渡り(10か月)、1898年からは2年にわたり朝鮮の漁業事情を調査、1902年もこれを続けた。1903年には調査をまとめた『韓海通漁指針』が黒龍会から刊行され、1904年には釜山で日刊紙「釜山日報」を創刊したが、病を得て日本へ戻っている。[6]
  • 1923 関東大震災に際し、黒龍会の救護活動に従事した。[6]
  • 1938 ロシアを追われて日本へ渡ってきたムスリムを支援するため、大日本回教協会を組織したと述べている。自身は「回教とは何の宗教的つながりもない」が、彼らがアジア各地に連絡を保っていたためだと説明している。のちに支援からは手を引いた。履歴書は、葛生が同協会を創立して理事長となり、のちに副会長になったと記す。[4][6]
  • 1939 平沼騏一郎内閣が国家総動員法を成立させた際、その審議にあたる委員の一人に任じられたと述べている。[4]
  • 1940– 1940年8月、近衛文麿から大政翼賛会(IRAA)の組織委員となるよう求められ、結成後は総務委員となって解散まで務めたと、宣誓供述書で述べている。委員は国民各層から選ばれており、自分が選ばれたのは行政経験のある民間人で、青年とその問題を理解していたためだと説明している。[7]
  • 1940–1945 GHQの尋問では、続く近衛内閣で組織された「新体制」委員会(大政翼賛会の母体となった委員会)の委員となり、その長を務めたと述べている。在任中に興亜同盟が結成され、その設立委員を経て顧問となった。大日本翼賛政治会では組織委員を務め、同会の理事の一人となった。[4]
  • 1943 大政翼賛会を代表してフィリピンの独立記念式典に派遣された。生涯で一度だけ飛行機に乗ったのがこのときだったと述べている。[4]
  • 1944–1945 1944年末の小磯国昭内閣では、朝鮮人・台湾人にいずれ参政権を与えるための調査を行う委員となり、内閣に置かれた国民義勇組織では顧問、厚生省の国民生活調査委員会にも加わったと述べている。[4]
  • 1943 1943年5月30日付のニッポン・タイムズ紙に「公開状 ― 黒龍会は米英の無条件降伏を要求する」を発表した。署名の肩書は「黒龍会総裁、大政翼賛会常務理事、大日本興亜同盟常任顧問」である。国際検察局の調書はその一節を引く。「ルーズヴェルト大統領およびチャーチル首相へ。……私はこの機会に、米英が今こそ過去の犯罪的行為を悔い改め、これを取り消す最後の機会を得ていることを、正義と人道のため、また世界の恒久平和と人類の永続する幸福のために想起させたい」。G-2の報告は、この記事を「最も声高な宣伝の形をとった国家主義思想」と評したうえで、「アッツ島での敗北の前夜にこうした記事が公けの新聞に載りえたこと自体、黒龍会がなお有すると考えられていた影響力を示す」と述べている。[6]
  • 『東亜先覚志士記伝』(全3巻)を監修・編著した。[1]
  • 国際検察局が調書に整理した経歴には、事典に見えない項目も含まれる。1911年に中国(上海・北京・南京)へ渡って孫文の顧問を務めたこと、1938年に国民精神総動員中央委員会の委員となったこと、1940年に戦時体制強化連盟の一員となり、1940年から44年まで大政翼賛会の顧問であったこと、1941年に大日本興亜同盟の総務、1942年に大政翼賛会の委員兼顧問となり、同年「満州国建国十周年」に同会代表として満州へ赴いたこと、1943年に同会の親善代表として「解放されたフィリピン」へ派遣されたこと、1945年5月に国民義勇隊の一員となったことである。[6]

釈放後の歩み

  1. 1946

    黒龍会が占領軍の指令によって解散させられた。葛生自身は、この年の2月初めには巣鴨拘置所にあり、3月27日にGHQの尋問を受けている。[2][4]

  2. 1947

    1月23日、巣鴨拘置所で宣誓供述書に署名し、極東国際軍事裁判に弁護側文書として提出された。[7]

  3. 1948

    巣鴨拘置所から釈放された(12月24日)。[3]

  4. 1958

    2月3日、83歳で死去した。[1]

戦後日本への影響

黒龍会は大アジア主義を掲げ、韓国併合、フィリピン独立運動、孫文の中国革命をはじめとして日本の対外膨張に黒幕的な活動を行ったとされ、国内でも国家改造運動や反共運動を展開した。葛生はその創立に加わり、内田良平の死後は主幹としてこれを率いた。[2][1]

1946年3月の尋問で葛生は、黒龍会を結成した動機を「ロシアの影響が満州と朝鮮に及んでいることを、宣伝を通じて国民に教え、目を覚まさせることだった」と説明している。1920年以降も存続させたのは、アジアの恒久平和を政府が実現するのを助けるためと、「海外に領土を拓いて日本の人口問題を解決するよう政府に促すため」だったという。[4] 諸説あり

同じ尋問で葛生は、会名について「外国人が本会を Black Dragon と呼ぶのは誤りである。満州とシベリアの間を流れる川の名をとったもので、正しくはアムール川であり、Amur River Society と訳されるべきだった」と述べている。また黒龍会は秘密結社ではなく「思想結社として政府の認可を受けていた」、会員はごく少数で「通常の意味の会員というより同人だった」と説明する。[4] 諸説あり

葛生が語る黒龍会の活動は、世論への働きかけが中心である。ワシントン会議の5・5・3比率に反対する世論を喚起し、国際連盟加盟国の代表へ抗議の電報を送ったこと。ロンドン会議でも同様に抗議したこと。1924年の米国排日移民法に際して米政府へ再考を求めたこと。不戦条約については「条約自体には賛成だったが、原案が『人民ノ名ニ於テ』署名させるものであったため、それは日本の国柄に合わないとして争った」こと。国際連盟脱退についても「正しいことではないかもしれないと分かっていたが、加盟国は常に平等に扱われるべきだという原則を主張することが絶対に必要だと考えた」ことなどである。[4] 諸説あり

他方で葛生は、満州事変・三月事件・十月事件・五・一五事件・二・二六事件・永田鉄山暗殺のいずれについても、黒龍会および自身の関与を否定した。「貴会がテロリストとして働く会員を出したことはあるか」との問いには「ありません」と答えている。尋問官は最後に「今朝のあなたの長く見事な陳述には、いくつもの事実の誤りがあった。それは1942年以降、日本政府が戦況についてあなたに与えてきた誤情報と同じ種類のものだ」と述べ、葛生は「そう言われるなら、私の話も供給された情報に基づくものだったのでしょう。私はそれを真実と信じていました」と応じている。[4] 諸説あり

東京裁判に提出された葛生の宣誓供述書は、自身について「生涯を通じて民間人であり、軍に属したことはない」と述べ、大政翼賛会については「臣道実践の普及を目的とする公的団体であり、内政・外交とは関係がなく、まして世界支配や侵略戦争とは無関係だった」と主張する。血盟団事件・五・一五事件・二・二六事件についても、政治腐敗の一掃を願う愛国青年の行動として当時受け止められていた、と説明している。これらは弁護側の立証のために提出された本人の主張であり、事実認定とは区別して読む必要がある。[7] 諸説あり

G-2の報告は、葛生の弁明を記録によって退けてもいる。「葛生は内田の死後に黒龍会が立ち消えたと主張するが、記録は彼が1940年代に入っても活動を続けていたことを示している」。黒龍会そのものについては「事実上あらゆる国家主義の企てに指を差し入れていた」と評し、葛生は1901年以来の活動会員かつ1937年以降の総裁として「1945年8月の終戦に至るまで、みずから思想的な国家主義活動に関わり続けた」とする。[6] 諸説あり

他方で同じ報告は、当初の嫌疑の一つを取り消してもいる。「葛生は、TAB Bに記されたような大日本言論報国会の会長ではなかった。同会が主催した伊勢神宮の爆撃を悼む集会で、一度だけ議長を務めたにすぎない。その際、葛生は、爆撃は日本人自身が精神的に備えていなかったことの報いである、と述べた」。この集会については、葛生自身も1946年の尋問で語っている。[6][4]

国際検察局が1947年4月29日付のG-2報告を要約したところによれば、葛生は「13を下らない国家主義団体の構成員」であり、「その多くは日本の対アジア大陸政策に直接関わるもので、その中には『中国を懲らしめる』『弥縫的な和平策を排する』『第三国の干渉を拒む』の三つを目標に掲げる対中同志団体も含まれていた」。[6]

葛生の処遇をめぐっては、占領軍の内部で判断が分かれていた。1947年4月29日、参謀第2部(G-2)は「思想上の活動を起訴の根拠とするのでない限り」訴追せずに釈放するよう勧告した。ところが同年6月20日、国際検察局は起訴状第1群の訴因1から5により訴追しうると判断し、6月26日の調書は嫌疑を裏づけるに足ると結論して、その写しは主席検察官キーナンの求めでワシントンへ送られた。[6]

結局、葛生が起訴されることはなかった。1948年12月24日、追加の裁判を開始しないという決定のもとで釈放されている。起訴の一歩手前まで進みながら方針転換によって消えた事件の、記録に残された一例である。[6][3]

本サイトが参照した資料は、1948年の釈放以後の葛生の活動について記載していない。黒龍会は1946年に占領軍の指令で解散させられ、大日本生産党も第二次大戦後に解散団体へ指定された(同党は1954年に河上利治を総裁として再建されたが、葛生の関与についての記載はない)。[1][2][5]

戦後の右翼運動を担った笹川良一・児玉誉士夫がいずれも戦中に台頭した世代であるのに対し、葛生は明治期に始まる国家主義運動の本流を体現した人物であり、同じ日に巣鴨を出ながら、その後の軌跡は大きく異なる。[1][3]

関わった人物

  • 内田良平 ― 黒龍会をともに組織した国家主義者。葛生ははじめ書記として働き、のち内田の秘書となり、1937年の内田の死後に後継者となった。清国革命のころには内田に随行して上海・南京へ渡っている(内田と孫文は親しい友人だったという)。[1][4]
  • 頭山満 ― 頭山と黒龍会の関係については、資料によって説明が大きく食い違う。事典は頭山を黒龍会の顧問と記す。葛生自身が1943年にニッポン・タイムズ紙へ寄せた公開状は、頭山を「黒龍会の最高顧問(Supreme Advisor)」と呼ぶ。GHQの記録はさらに踏み込み、逮捕時の評価書と調書の要目は葛生を「頭山の右腕」とし、G-2の報告は、満鮮問題国民同盟および満洲問題挙国一致各派連合会において葛生が内田良平・頭山と交代で首席代表を務めたと記す。他方で葛生は1946年のGHQの尋問において「頭山は会員としても役員としても黒龍会と一切関係がなかった。ただ内田良平と同郷の親友であったため、しばしば会合の議論に同席し、重要な事項を論じるときは議長を頼まれることが多かった」と述べている。[2][6][4]
  • 荒木貞夫 ― 葛生は1947年1月、荒木貞夫らを被告とする極東国際軍事裁判に、弁護側文書 No.565 として宣誓供述書を提出した。その中で、当時の荒木は軍だけでなく国民一般からも清廉で無私の愛国者と見られていたと述べている。[7]
  • 近衛文麿 ― 1940年8月、葛生に大政翼賛会の組織委員となるよう求めたとされる(葛生自身の供述による)。[7]
  • 笹川良一 ― 1948年12月24日に釈放された19名に、ともに名を連ねている。[3]
  • 児玉誉士夫 ― 1948年12月24日に釈放された19名に、ともに名を連ねている。[3]
  • 大川周明 ― 同じく国家主義の理論・運動を担い、1948年12月24日に釈放された19名に、ともに名を連ねている。ただし葛生はGHQの尋問で「大川周明博士は貴会の会員でしたか」と問われ、「いいえ、違います」と否定している。[3][4]

出典

本文中の [番号] は下記の出典に対応します。区分: 一次資料=公文書等/学術=論文・研究書/報道/一般書。

  1. [1]
    一般書 コトバンク「葛生能久」(改訂新版 世界大百科事典/20世紀日本人名事典/デジタル版 日本人名大辞典+Plus) (コトバンク) リンク
    明治7年7月25日生・昭和33年2月3日没(83歳)・千葉県出身・葛生東介の弟・1901年の黒龍会組織・昭和12年の内田良平の死後に黒竜会主幹・昭和6年の大日本生産党への参加・『東亜先覚志士記伝』(全3巻)の監修を確認。「A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され、23年釈放」の記載は20世紀日本人名事典による。釈放後の活動については、いずれの事典にも記載がない。※なお生年月日について、事典は「明治7年7月25日」とするが、葛生自身はGHQの尋問(1946年3月27日)で「明治7年9月15日生まれ」と答えており(kz4)、両者は一致しない。本サイトは事典の記載を採用している
  2. [2]
    一般書 コトバンク「黒龍会」(精選版 日本国語大辞典/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) (コトバンク) リンク
    1901年(明治34)に頭山満を顧問として内田良平が創立、会名は黒龍江(アムール川)に由来、大アジア主義を掲げ大陸浪人を主体に軍部の外郭団体として活動、韓国併合・フィリピン独立運動・孫文の中国革命への黒幕的関与、国内での国家改造運動・反共運動、1931年の大日本生産党への発展、昭和21年(1946)占領軍の指令による解散を確認
  3. [3]
    一次資料 Foreign Relations of the United States, 1948, Vol. VI, The Far East and Australasia, Document 632(740.00116 PW/12–2448: Telegram) /William J. Sebald(在日政治顧問代理)→ 米国務長官 (U.S. Department of State, Office of the Historian 1948-12-24) リンク
    1948年12月24日に19名の戦犯容疑者が釈放されたことと、その氏名一覧を記載。一覧に Yoshihisa Kuzuu の名がある
  4. [4]
    一次資料 Exhibit No. 762 — Transcript of interrogation, 27 Mar. 1946, of KUZUU, Yoshihisa(極東国際軍事裁判 法廷証第762号・葛生能久尋問調書) /Major John F. Hummel(尋問官)/通訳 J. K. Sano/速記 Marjorie E. Preus (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1946-03-27) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331(GHQ/SCAP)/NDL pid 12855040/全23ページ リンク
    冒頭に「Date and Time: 27th March 1946 – 0945 – 1545/Place: Sugamo Prison, Tokyo, Japan」と明記。末尾に通訳J・K・サノ、速記マージョリー・E・プロイス、尋問官ジョン・F・ハンメル少佐(「Duly Detailed Investigating Officer, International Prosecution Section, GHQ, SCAP」)の認証があり、1946年4月1日付・東京で作成、本文は21ページ。本サイトは同資料のスキャン画像を全23ページ判読して引用している。※尋問における葛生の応答は本人の弁明であり、事実認定とは区別して読む必要がある
  5. [5]
    一般書 コトバンク「大日本生産党」(改訂新版 世界大百科事典/日本大百科全書) (コトバンク) リンク
    黒竜会関西支部を中心に1931年6月28日結成、翌32年に党員1万6000余名、1942年に大日本一新会へ改組、第二次大戦後は解散団体に指定され1954年6月に河上利治を総裁として再建されたことを確認。葛生個人への言及は同項目にはない
  6. [6]
    一次資料 Dossier — KUZUU, Yoshihisa (Case File No. 105)(GHQ/SCAP 国際検察局 調書) /Gilbert S. Woolworth(作成)/要目 RESUME of File No. 105 は R. H. Larsh 作成(1946年11月27日) (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1947-06-26) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331(GHQ/SCAP)/NDL pid 12856339/2分割・計186ページ リンク
    冒頭に「Copy forwarded to Washington, D.C. 30 June 47 at the request of Mr. Keenan」の押印。判読したのは、巻頭の要目(RESUME、全19綴の目次)、捜査部からウールワース大佐あて覚書(1947年6月26日/逮捕の根拠と収容日)、調書本文(嫌疑・履歴・公開状の抜粋・結論)、国際検察局の書面(1947年6月20日/訴因1–5により訴追しうる)、G-2の「機密」報告原本(1947年4月29日/法務局あて、IPSへ写し。嫌疑の列挙と釈放勧告)、その勧告を引用した覚書、TAB A「履歴書」(全2ページ)、TAB C「逮捕時の評価」である。ファイル中ほど以降は各国家主義団体に関する背景報告がタブ仕切りで綴じられ、末尾には1946年3月27日の尋問調書の複写が入る。要目によれば、なお綴9「これ以上の捜査は不要との覚書」、綴18「尋問(要旨)=被疑者は現在の被告の誰も知らず、被告に黒龍会員はいなかった」などが残るが、これらは未判読。186ページ全ての判読は行っていない
  7. [7]
    一次資料 Defense Document No. 565 — Sworn deposition of KUZUU, Yoshihisa(極東国際軍事裁判 弁護側文書第565号・葛生能久宣誓供述書) /葛生能久(供述人)/翻訳証明 William E. Clarke(Defense Language Branch, 1947年2月18日 東京) (国立国会図書館デジタルコレクション「日本占領関係資料」 1947-01-23) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331(GHQ/SCAP)/NDL pid 10271885/全5ページ リンク
    事件名は「THE UNITED STATES OF AMERICA, et al vs ARAKI, Sadao, et al」。末尾に「At Sugamo Prison on this twenty-third day of January, 1947」と記され、葛生の署名と3名の立会人の署名がある。本サイトは同資料のスキャン画像(全5ページ)を判読して引用している。なお冒頭に手書きで「Ex 2366(Withdrawn)」とあり、法廷証としては撤回された可能性がある点に留意(撤回の経緯は未確認)

最終確認日:2026-07-29

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