葛生能久

くずう よしひさ(Yoshihisa Kuzuu) A級

1874年7月25日 – 1958年2月3日 /千葉県 /右翼・団体

葛生能久(1874–1958)は、千葉県出身の国家主義者。1901年(明治34)に内田良平らとともに黒龍会を組織し、内田の死後は黒龍会の主幹を務めた。[1]

1931年(昭和6)には、黒龍会を中心に結成された大日本生産党に幹部として参加した。『東亜先覚志士記伝』(全3巻)の監修・編著者としても知られる。[1]

敗戦後、A級戦犯の容疑者として巣鴨拘置所に収監され、1948年12月24日に釈放された。本サイトの収録者の中で、明治以来の国家主義団体そのものを率いた立場にある一人である。[1][3]

戦犯としての位置づけ

区分
A級戦犯
処遇
不起訴・釈放
巣鴨収容
不詳
釈放
1948年12月24日

敗戦後、A級戦犯の容疑者として巣鴨拘置所に収監された。収容がいつ始まったかについては、本サイトが参照した資料に明記がない。[1]

連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)は葛生に関する記録を作成しており、1946年3月27日の尋問調書、宣誓供述書(弁護側文書 No.565)、戦犯 Case File(No.105)などが米国立公文書館(RG331)に残る。その複製は国立国会図書館の「日本占領関係資料」として公開されている。[4]

起訴されないまま、1948年12月24日に釈放された。在日政治顧問代理シーボルトが同日付で米国務長官へ送った電報は、この日に釈放された19名の一人として葛生の名(Yoshihisa Kuzuu)を挙げている。東條英機らの処刑(12月23日)の翌日にあたる。[3][1]

戦前の経歴

  • 1901 内田良平らとともに黒龍会を組織した。黒龍会は頭山満を顧問とし、大アジア主義を掲げ、大陸浪人を主体として軍部の外郭団体として活動した。会の名は黒龍江(アムール川)にちなむ。[1][2]
  • 1931 黒龍会関西支部を中心に結成された大日本生産党に、幹部として参加した。同党は結成の翌年に党員1万6000余名を擁したとされる。[1][5]
  • 1937– 内田良平の死後、黒龍会の主幹となった。[1]
  • 『東亜先覚志士記伝』(全3巻)を監修・編著した。[1]

釈放後の歩み

  1. 1946

    黒龍会が占領軍の指令によって解散させられた。[2]

  2. 1948

    巣鴨拘置所から釈放された(12月24日)。[3]

  3. 1958

    2月3日、83歳で死去した。[1]

戦後日本への影響

黒龍会は大アジア主義を掲げ、韓国併合、フィリピン独立運動、孫文の中国革命をはじめとして日本の対外膨張に黒幕的な活動を行ったとされ、国内でも国家改造運動や反共運動を展開した。葛生はその創立に加わり、内田良平の死後は主幹としてこれを率いた。[2][1]

本サイトが参照した資料は、1948年の釈放以後の葛生の活動について記載していない。黒龍会は1946年に占領軍の指令で解散させられ、大日本生産党も第二次大戦後に解散団体へ指定された(同党は1954年に河上利治を総裁として再建されたが、葛生の関与についての記載はない)。[1][2][5]

戦後の右翼運動を担った笹川良一・児玉誉士夫が、いずれも戦中に台頭した世代であるのに対し、葛生は明治期に始まる国家主義運動の本流を体現した人物であり、同じ日に巣鴨を出ながら、その後の軌跡は大きく異なる。[1][3]

関わった人物

  • 内田良平 ― 黒龍会をともに組織した国家主義者。1937年の内田の死後、葛生が黒龍会の主幹となった。[1]
  • 頭山満 ― 黒龍会の顧問。[2]
  • 笹川良一 ― 1948年12月24日に釈放された19名に、ともに名を連ねている。[3]
  • 児玉誉士夫 ― 1948年12月24日に釈放された19名に、ともに名を連ねている。[3]
  • 大川周明 ― 同じく国家主義の理論・運動を担い、1948年12月24日に釈放された19名に、ともに名を連ねている。[3]

出典

本文中の [番号] は下記の出典に対応します。区分: 一次資料=公文書等/学術=論文・研究書/報道/一般書

  1. [1]
    一般書 コトバンク「葛生能久」(改訂新版 世界大百科事典/20世紀日本人名事典/デジタル版 日本人名大辞典+Plus) (コトバンク) リンク
    明治7年7月25日生・昭和33年2月3日没(83歳)・千葉県出身・葛生東介の弟・1901年の黒龍会組織・昭和12年の内田良平の死後に黒竜会主幹・昭和6年の大日本生産党への参加・『東亜先覚志士記伝』(全3巻)の監修を確認。「A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監され、23年釈放」の記載は20世紀日本人名事典による。釈放後の活動については、いずれの事典にも記載がない
  2. [2]
    一般書 コトバンク「黒龍会」(精選版 日本国語大辞典/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典) (コトバンク) リンク
    1901年(明治34)に頭山満を顧問として内田良平が創立、会名は黒龍江(アムール川)に由来、大アジア主義を掲げ大陸浪人を主体に軍部の外郭団体として活動、韓国併合・フィリピン独立運動・孫文の中国革命への黒幕的関与、国内での国家改造運動・反共運動、1931年の大日本生産党への発展、昭和21年(1946)占領軍の指令による解散を確認
  3. [3]
    一次資料 Foreign Relations of the United States, 1948, Vol. VI, The Far East and Australasia, Document 632(740.00116 PW/12–2448: Telegram) /William J. Sebald(在日政治顧問代理)→ 米国務長官 (U.S. Department of State, Office of the Historian 1948-12-24) リンク
    1948年12月24日に19名の戦犯容疑者が釈放されたことと、その氏名一覧を記載。一覧に Yoshihisa Kuzuu の名がある
  4. [4]
    一次資料 GHQ/SCAP 文書中の葛生能久関係記録(日本占領関係資料) /General Headquarters / Supreme Commander for the Allied Powers (国立国会図書館デジタルコレクション) 原所蔵=米国立公文書館 RG 331/主なもの=Def. Doc. No.565 Sworn deposition(NDL 10271885)、Exhibit No.762 Transcript of interrogation, 27 Mar. 1946(NDL 12855040)、Case File No.105(NDL 12856339)、人物ファイル(NDL 9896600, 1945/09–1947/02) リンク
    GHQ/SCAPが葛生に関する尋問調書・宣誓供述書・戦犯Case Fileを作成していたことを、資料の標題と原所蔵情報(NARA RG331)により確認。**いずれも画像スキャンでテキスト層がなく、本文の内容は未読**。本サイトはこれらを「記録が存在すること」の根拠としてのみ用いており、記載内容の引用は行っていない
  5. [5]
    一般書 コトバンク「大日本生産党」(改訂新版 世界大百科事典/日本大百科全書) (コトバンク) リンク
    黒竜会関西支部を中心に1931年6月28日結成、翌32年に党員1万6000余名、1942年に大日本一新会へ改組、第二次大戦後は解散団体に指定され1954年6月に河上利治を総裁として再建されたことを確認。葛生個人への言及は同項目にはない

最終確認日:2026-07-29

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